武生駅南・錦町立体交差

(2003年8月11日初版記事公開/2023年12月21日大幅書換え)
JR北陸本線武生駅のすぐ南でJRを跨ぐ県道の一端がのの字を描いている。

市街を南北に流れる日野川に架かる橋が少ないうえに、国鉄北陸本線の踏切があって駅に隣接していることから遮断時間が長くなる。さらに戦後の工場誘致や人口増加に伴って可住面積が広い日野川右岸(東側)に住宅地が広がり、東西方向の人流増加が渋滞に一層の拍車をかけた。

そんな事情で北陸地方としては比較的早い時期に踏切除却事業が実施され、自動車は跨線橋で、自転車歩行者は地下道で、それぞれ北陸本線を渡るようになった。歩車分離を徹底したのは歩行者を交通事故から守るというよりは、冬季除雪の苦労を小さくする意図だろう。

・・・という背景が武生市史に全部書かれていたとは知らず、事実をひとつひとつ調べてしまった。

武生大野線の錦町踏切は、本市の中心を東西に走る重要な通路に当たり、一日五千台の自動車の通行が、貨物駅の設置で百五十本の列車の通過に阻まれ交通渋滞をきたしていた。三十三年十月に万代橋の架け換え工事も完成したので、この踏切はループ式の立体交差にすることになり、歩行者のための地下道とともに四十二年五月に竣工した。総工費二億二千万円、延長三百九十六メートル車道は狭い所は九・五メートル広い所は十二メートルで、高さは七メートルである。

文・写真とも 武生市史 概説篇 (昭和51年12月 武生市役所) 783ページ

工事概要が記載された銘板には、昭和42年当時、主要地方道武生大野線として指定されていたことが示されている。主要地方道武生大野線とは県道2号で、現在は武生駅北側を通る道路である。

武生駅南の錦町踏切除却前後

1962(昭和37)年05月16日 未着工の時代。日野川左岸(西側)は住宅が密集していて跨線橋を架けるのは無理のように思える。
1966(昭和41)年07月14日 錦町踏切の除却事業は昭和40年に着工された。道路予定地の立ち退きが進行中だ。
1968(昭和43)年05月10日 錦町立体交差完成後。
2021(令和03)年06月10日 現代。虫食い状態の土地が少し哀しいが、これぐらいがちょうどいいのかも知れない。

初訪時、隣接する錦地下道に「老人用」と示されたレーンがあった。シルバーカー(老人用歩行器)の車輪幅に合わせてスロープを設けているのだ。シルバーカーが市民権を得たのは昭和40年代後半以後なので、後年に改修されたものだろう。

のの字情報整理

路線県道190号小曽原武生線
所在地福井県武生市吾妻町
回転度240度
完成時期1967(昭和42)年5月
実走行日2003-08-11

全景写真

(2003年8月11日撮影) のの字には歩道がなく、周辺に高い建物もないので、全景撮影は困難だ。
地方都市の踏切除却事業の中では早いほうだ。
当時はこの道路が県道2号だったことを示している。
ところで、「地保」ってどういう意味だろうか。辞書にはない言葉だ。
ループを示す警戒標識を筆頭になかなか賑やかな標識が並ぶ。
「老人用」レーンはいつ頃作られたものだろうか?


(2023年11月3日撮影) 武生駅南・錦町立体交差をパノラマで撮影拡大する
錦町立体交差をパノラマで撮影。おっと、「老人用」の掲示が撤去されているぞ。シルバーカーの車輪幅に合わせたスロープはそのままだ。
武生駅南・錦町立体交差空撮拡大する
錦町立体交差空撮。ループの中は古くから駐車場として利用されている。