日吉三橋(滋賀県大津市)

2024年12月28日訪問
日吉大社の入口、淀川水系大宮川に架かる橋。南(上流側)から順に大宮橋、走井橋、二宮橋と名付けられている。いずれも微妙に異なるものの木橋の構造を忠実に再現した石橋で、九州発の石造アーチ橋とは全く違う。架設の歴史は最後にまとめた。

大宮橋

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橋長13.9mの3径間石造桁橋。橋脚に貫(連結材)が渡されていることが特徴。行桁の上に横桁を渡し、その上に床版を置いている。中央径間はゲルバー桁と言えるだろうか。

他の2橋よりもキャンバーが小さい。西本宮だけでなく、日吉大社復興造営の資材搬入路とすべく障害を取り除く意図が見える。

楔石にしてはちょっと小さい気がするが、楔石以外に思いつかない。

走井橋

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橋長13.8mの3径間石造桁橋。非常にシンプルな構造だが、こちらは元々人道橋としての利用しか想定していないと見える。

重量物を通す想定がないので楔石で連結する必要がないということだろうか。

二宮橋

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橋長13.9mの5径間石造桁橋。

側径間のみゲルバー桁形式が採用されている。大宮橋との大きな違いだ。

二宮橋は車馬のみならず人も通行禁止。神事・祭礼専用というわけではないが、この方向から渡れると思った自動車が突っ込んだことがあって、それ以来紙垂を張って通行禁止にしているとのこと。

日吉三橋の歴史

日吉大社はおよそ2100年前に創祀された、日吉・日枝・山王神社の総本社である。平安京遷都後は京の鬼門封じの役割を担う等、古くから様々な崇敬を受けてきた。

1571(元亀2)年に発生した比叡山焼き討ちとその後の処理により日吉大社と比叡山延暦寺は灰燼に帰した。信長の死後、1584(天正12)年に豊臣秀吉が発した山門再興判物により復興に着手することとなった。

「日吉三橋」に関わる近年の解説においては、天正年間(1573年~1592年)に豊臣秀吉が寄進したと伝えられると記述されているものが多いが、信長存命中に秀吉が寄進することはあり得ず、早くても1582年であろう。さらには当時の秀吉の立場を考慮すると寄進などできるはずがなく、山門再興が許可されただけで架設は勧進(民衆の寄付)によるものと見るほうが自然のように思える。

黄色マーク部分の出典はおそらく新修大津市史 第7巻(北部地域)(1984年11月)で、「日吉大社日吉三橋」の項の執筆者は京都市歴史資料館初代館長で日本史学者の森谷尅久氏、一方、山門再興判物に関しては新修大津市史 第3巻(近世前期)(1980年8月)の「豊臣政権と大津」に詳しく、その項の執筆者は石川県立歴史博物館館長で京都大学名誉教授の藤井譲治博士
新大津市史 別巻(1963年)には「大宮橋は(中略)その竣工については一般に天正14年(1586)といい、一説では寛文9年(1669)ともいう」と記述されている。執筆者は大阪学芸大学近藤豊助教授(当時)。

これら史誌の記述を総合すると、1586(天正14)年に架設された当初は木橋であったが、1669(寛文9)年に現在の石橋に架け替えられた、ということになるだろうか。

いずれも国指定重要文化財(建造物)

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