亀屋橋(東京都港区)

2024年10月20日訪問 [Google Maps]    [地理院地図]
古川(渋谷川)に架かる私道橋。
1933(昭和8)年8月完成、橋長17mの単径間下路式ポニーワーレントラス橋。
昔の地図を見ると、明治23年再版明治30年鉄補の迅速図には橋がなく、1909(明治42)年測図にて亀屋橋・養老橋・青山橋が橋名とともに確認できる。

なぜ「亀屋橋」なんだろう?
ひとつ上流の橋・狸橋の袂には橋名の由来が記された碑があるが、亀屋橋は私道橋という事情もあって推察するしかない。
その頃、世界の洋酒をはじめ飲料・食料品、缶詰、和洋煙草、菓子類を取り扱う商店「亀屋」が芝区新橋にあった。その寄付橋と想像するが果たして?隣の養老橋の橋名由来とセットで考えるべきか。参考資料1によれば、

この川岸は、葦の生えた湿潤な状態が続き、明治二十二年(1889)ごろからようやく土地として図上に現されるようになり、当時、八郎右衛門新田と記されている。正式町名を設定されたのは同四十四年(1911)で、麻布新広尾町としたのは麻布広尾町の人が移転しはじめたのによるものらしく(後略)

橋は上流から天現寺橋、狸橋(三光町狸そばによる)、亀屋橋、養老橋(三光町養正園によるか)、青山橋(橋の持主名、以上三橋は個人持)、五ノ橋、四ノ橋(麻布本村町参照)、新古川橋、古川橋、三ノ橋、二ノ橋(芝三田小山町参照)、小山橋、一ノ橋となつている。

三光町養正園とは日本最初の結核施療院「土筆ケ岡養生園」のこと。明治26年9月開院。現在は北里大学北里研究所病院である。この橋は現在も学校法人北里研究所の私道なのだろう、と仮説を立ててみたが外れた。

港区議会の平成元年度決算特別委員会(11月30日)で亀屋橋と養老橋の管理に関する質疑応答があり、所有者不明のためやむを得ず区が最低限の保守を行っているとのこと。

垂直補剛材がトラスの外側に張り出すポニーワーレントラス橋は平成元年時点では国内に多く存在したと思うが、令和の現代では非常に少なくなっている。そして所有者不明のまま数十年経過している点も特異である。橋の管理者が古川の管理者である東京都に河川占用許可申請を行っているはずだが、それが不明ということは「勝手橋」だ。港区は東京都と連携して強制撤去か没収の手続きを行うのが筋ではないか。それをやらないのは、

架設した主体が東京市だからだろう。「本橋ハ都市計劃事業トシテ改築シタルモノナリ 起工 昭和七年十二月 竣工 昭和八年八月 工費金八千四百圓也 東京市」と刻まれた来歴板が存在するにも関わらず、所有者不明と答弁したのは台帳不記載だからか。
筆者が想像する経緯はこうだ。

  • 明治時代に三光町養正園(北里研究所)が業者納品便宜のため亀屋から資金供給を受けて木橋を架け、亀屋橋と名付けた
  • 関東大震災で落橋または焼失した
  • 既に市民に利用されていたので東京市が復興の一環で養老橋と同じ仕様で鋼橋を架けた
  • 管理者移管について口約束したものの東京市は移管手続きを行わなかったため、北里研究所は除却したが東京市の資産台帳には載らなかった
  • 震災復興~戦災の混乱により亀屋橋の帰属が有耶無耶になった

工事銘板を作製した東京市担当者とそれを橋飾塔台座に残す判断をした後年の現場管理者のファインプレーと評価したい。

なんと縦桁レスのPC床版。架設当初は木製の縦桁(行桁)の上に木床版を張っていたのだろうと想像する。港区議会議事録から推測するに、1988(昭和63)年度に行われた改修工事の結果だろうか。

後年の補強箇所は神鋼ボルトの製品が使われている。神鋼ボルト創立の1970年以前から神戸製鋼としての製品は存在しただろうが、JISマークが刷新された2008年9月(移行期間満了)以前に施工されたことがわかる。

    参考資料

  1. 港区史 上巻(1960年/東京都港区)
  2. 写された港区 3(1983年3月/東京都港区立みなと図書館)
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