二ヶ領用水 久地円筒分水


1597(慶長2)年に開鑿が開始され、1611(慶長16)年に完成した二ヶ領用水。関東に転封された徳川家康が、用水奉行に命じて施工した農業水利施設である。ただし、多摩川で取水するようになったのは1629(寛永6)年とされる。

宿河原で取水するだけでは用水が不足することがあったためか、その後に上河原(稲田堤近く)でも取水されるようになり、また、18世紀には久地・二子堀/六ヶ村堀/川崎堀/根方堀の4方向に配水することが確立し、その配水量をめぐって地域内で争いがあったことから、18世紀には円筒分水工の前身である「久地分量樋」が設置された。とは言え、その構造は背割り分水のため流量によって分水比が変わるがゆえに争いが絶えなかったようだ。

1941(昭和16)年、現在の久地円筒分水が設けられ、水争いは決着した。
しかし、それから30年程度で農業用水はもとより工業用水としての役目も終えるようになるとはなんとも皮肉なことだ。現在は農業用水としては利用されておらず定比分水の必要はない。もっぱら住民の親水設備・観光施設としての利用にとどまっている。周辺が都会化された分水施設の宿命だ。

1998(平成10)年6月には国登録有形文化財に指定、2012年には土木学会選奨土木遺産に認定された。

ちなみに、1949(昭和24)年には二ヶ領用水の取水を容易にするための設備としてコンクリート製の宿河原堰が完成したが、これが原因で1974(昭和49)年9月に山田太一氏原作の「岸辺のアルバム」の題材となった狛江水害が発生した。

管理者川崎市建設局
所在地神奈川県川崎市高津区久地1丁目
訪問日2017-03-25
全景写真
久地円筒分水全景拡大する
久地円筒分水全景。訪問した日は第13回円筒分水スプリングフェスタの開催日で、この構図で写真を撮影できる年1回のチャンスであった。分水器周囲の桜は開花していたもののまだ一分咲きぐらいか。
円筒の直径は16m。国内の円筒分水工では大規模な部類だ。
1枚目の写真の反対側から見る久地円筒分水全景。奥へ延びる水路が川崎堀、二ヶ領用水の主水路だ。
手前が根方堀、奥の左側が久地・二子堀、奥の右側が六ヶ村堀である。
国登録有形文化財と土木学会選奨土木遺産を示すプレートが置かれている。
施設への立入を制限するために完成当時に設けられた手すり支柱。当時は木製の手すりが嵌められていたのだろう。
円筒分水工のすぐ北側で二ヶ領本川(にかりょうほんせん)と平瀬川が合流する。二ヶ領本川側にある堰のすぐ上流で取水し、平瀬川(写真の左側の流路)の下を二ヶ領用水がくぐる。
平瀬川には階段式魚道が設けられている。
国道246号を跨ぐ溝の口第3歩道橋から眺める二ヶ領用水(川崎堀)。この水路には多数の橋が架けられているが、2017年3月14日の朝日新聞報道によれば、いくつかは所有者不明で通行止めの措置が取られているという。