神戸港の西部、兵庫運河の中ほどに架かる橋の南側歩道取付部の斜路がループしている。
住吉橋の歴史
住吉橋の歴史はすなわち兵庫運河の歴史である。
兵庫運河は兵庫港(現在の神戸市中央卸売市場付近)と須磨方面を短絡する水路として明治初期に計画され、1899(明治32)年12月に完成した。1899~1900年、運河開鑿により分断した山側と海側を連絡するために道路橋6基と鉄道橋1基が架設され、いずれも旋開橋が採用された(と言われている)。元々が砂嘴の土地で標高が低く、船舶(当時は殆どが帆船の弁才船で檣高は20~25mあった)が通航可能な固定橋建造の技術をまだ持たない時代は可動橋が唯一の形式であった。
住吉橋も当初は木造の旋開橋であった。1923(大正12)年測図の1/25000地図で住吉橋の存在を確認でき、この時点では可動橋だった。(参考資料による)
兵庫区で建設業を営む北浦建設㈱のウェブサイトに「住吉橋新設工事 昭和17年9月竣工」が掲載されている。神戸市で住吉橋と言うと兵庫運河の他に阪神国道の住吉橋(現在の東灘区役所前)があるが、背景や水路に浮かぶ木材から見て兵庫運河の住吉橋だろう。このときはまだ木造桁橋だったこと、そして固定橋になっていることがわかる。木橋の寿命は10~20年程度なので、この架替は3代目だろうか。
1946(昭和21)年~1948(昭和23)年の空中写真には住吉橋が存在しない。空襲被害で焼失または落橋したのかも知れない。
1948(昭和23)年5月には戦災復興事業の一環として兵庫運河修築工事が開始され、それまでの水路幅36mが60mに拡張された。このときに(おそらく4代目)住吉橋が架けられた。
その後の自動車普及に対応すべく、1972(昭和47)年12月に現在の住吉橋に架け替えられた。架け替えに際してはまず南行線を架設、その後に北行線が歩道とともに架設された。運河修築工事による水路幅拡張のための用地取得が二十数年前にあったためだろうか、買収する土地を最小化すべく南側歩道取付部の斜路の一部は運河上に張り出す荒業となった。
兵庫運河の橋梁配置
運河開鑿とともに架設された橋以外は追加されていないことに、高度な計画性を感じる。
住吉橋(兵庫運河第4橋)付近の変遷

| 運河修築工事前。戦後復興で木材輸入が大幅に増えると見込んだ市は運河の拡張を計画した。住吉橋がない。 | |
| 1961(昭和36)年05月 | 運河修築工事後。予想は的中、運河として機能しないぐらいに大量の木材が水面保管されている。先代の住吉橋が架けられている。 |
| 1969(昭和44)年04月 | 少しは統制されたようで可航幅が広くなっている。 |
| 1972(昭和47)年05月 | 新・住吉橋の南行線は1971年7月に完成した。北行線の橋脚工事中。 |
| 1975(昭和50)年03月 | 住吉橋は歩道を含め完成した。この写真当時、橋上は原木の影響で異臭がすごかったに違いない。 |
| 2021(令和03)年10月 | 貯木場の機能はなくなり、親水地域として活用が始まっている。 |
歩道橋情報整理
| 路線 | 市道御崎本町線 |
|---|---|
| 所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区御崎本町4丁目 |
| 回転度 | 360度 |
| 完成時期 | 1972(昭和47)年12月 |
| 実走行日 | 2023年12月30日 |
現調レポート
住吉橋の橋上から兵庫運河西方を眺める。見えている橋は手前からJR和田岬線の和田旋回橋、材木橋、御崎橋だ。他の橋の桁下高さに比べて住吉橋は高い。住吉橋北詰にあった国鉄兵庫臨港線新川駅(貨物駅)を跨ぐ必要があったからだろう。
住吉橋歩道斜路部のループ。斜路の一部は運河上に張り出している。
運河に向かって突っ込みそう。
斜路の橋脚は太く、大量のボルトを使って梁を結合している。
ループを下から眺める。360度回転と逆方向に90度回転することで斜路の長さを確保している。
斜路部に橋名板・橋歴板は見つけられなかった。この橋歴板は南行線のもので、北行線の橋歴板は北詰にある。
- 参考資料
- 神戸開港百年史 建設編 1970年/神戸市

