桜町ロータリー

小樽市は鰊漁の拠点として開け、そして札幌の外港として発展してきた。大正時代(1914~1923)には手狭になった港頭地区拡張のため埋立が行われ、小樽運河が作られた。おそらく、小樽の貿易拠点としての最盛期はこの時期だったのではないか。当然、市街地はどんどん拡大したはずだ。どのあたりを大正の旧市街地と言っていいものか迷うところではあるが、北防波堤と南防波堤に囲まれたエリアがその候補のひとつであることは論を俟たないであろう。

「北の誉」で有名な小樽の酒蔵である「丸ヨ野口商店」の2代目、野口喜一郎氏は、そんな小樽の街の発展とともに酒の製造販売で大きな富を得て、さらにビジネスを拡大しようと考えたのか1931(昭和6)年頃から、その旧市街地と朝里川温泉に挟まれた寒村である熊碓(くまうす)を一大住宅地にしようと土地買収を始めたそうだ。先述のとおり、小樽の旧市街地は大正時代までに開発が進んでしまったために、買収できる土地は郊外に求める他になかったのかも知れない。

しかし、土地を総ざらいのごとく買収するのは無理があったようで、道庁職員に土地区画整理という手法のアドバイスや実務的支援を得て隣村である旧・朝里村々長の協力も取り付け、旧・熊碓村周辺約400,000坪(=133町歩=28東京ドーム)の土地区画整理事業を開始することとなり、野口氏がその土地区画整理組合長に内定、1934(昭和9)年7月に内務省から設立が認可された。野口氏が熊碓に目を付けてからわずか3年足らずの進展である。

組合設立後の最初(昭和10年度)の工事として第1号幹線道路(現在の桜町本通、国道5号平磯トンネル東詰から熊碓神社まで)の設計施工が開始された。その後も徐々に工事が進み、桜町ロータリーが施工されたのは1938(昭和13)年とみられる。前後して、昭和11年5月に岐阜市公会堂で開かれた第4回全国土地区画整理事業者大会に出席、さらに東京・名古屋・宇治山田(現・伊勢市)等の事業視察を行ったとのこと。

参考資料1に記載はないが、昭和12年7月には札幌市公会堂で第4回全国土地区画整理事業者大会が開催されており、当然出席しただろう。また、昭和10年には土地区画整理研究会の研究誌「区画整理」が創刊されている。どこかで「街の中心に円形交差点を置くことが時代の先端」であることを学んだのかも知れない。兵庫県豊岡町の区画整理事業は昭和4年完了であり、この事業経緯が何かに発表されたのではないか。根拠の無い勝手な想像ではあるが、寿ロータリーのことが話題になった可能性は高い。

区画街路の施工は地元在住の上杉氏、ロータリーの造園工事は小樽市内在住の明道氏によるものとのことである。このロータリー造園工事に関して、参考資料1には

組合長野口氏の理想を端的に生かすべくロツクガーデン式に設備し、その中央部には地区内から厳選した枝振りのよい栓の大木を移植し、その周辺には、張碓神工園付近産出の焼石を配置した。

との記載がある。張碓神工園とは、戦前、張碓トンネル付近の海岸沿いに存在したらしい園地。つまり、現在も採石が続いている場所だろう。

現地取材してみたが、中央島および周辺には栓(ハリギリ:針桐)らしき木も焼石も存在しない。80年近く経過しては仕方のないことか。もっとも、円形交差点としては中央島の植栽は現在のような低さが望ましい。現地聞き取りの結果、ここがロータリー交差点として(右回り一方通行で)運用されるようになったのは1960年代後半(昭和40年代)のようだ。道路が舗装され標識が整備されたことが大きなきっかけだったらしい。

2016年1月現在、北海道に環状交差点は存在しないが、環状交差点運用が可能な公道の円形交差点はおそらくここだけである。

なお、土地区画整理事業は1940(昭和15)年に完了したが、1937(昭和12)年から始まった支那事変(日中戦争)の影響により分譲地の売れ行きは芳しくなかったらしい。自動車交通が普及するには30年早く、公共交通機関は満足に整備されない状況では無理もない。戦後の農地法により住宅地のはずが農地に戻される事態となり、野口氏が想起したであろう街並みに育つのは区画整理事業完了から30年も後のことである。

カテゴリーロータリー
路線市道桜1号線(東小樽線)/他市道
所在地北海道小樽市桜5丁目
実走行日2015-08-14
全景写真
南東側から眺める。環道は時計回りの一方通行が指定されている。
南側から眺める。除雪対策のため路肩が広い北海道なので、非積雪期の路肩は駐車帯になる。現地の規制も「12月~3月は駐車禁止」だ。
西側から眺める。この道だけが妙に狭い。
北西側から。
北側から。この接続のみ、一時停止の必要がない。つまり流入車両優先ということになる。また、円形交差点であることがわかる青看板はここに設置されているもののみ。
通り名の標識はここだけ。
国土地理院地図・空中写真閲覧サービス[1947(昭和22)年9月29日米軍撮影]
桜町ロータリーができておよそ10年。空中写真の轍を見る限り、ロータリーの通行方向は規制されていなかったのだろう。

参考資料:

  1. 小樽市桜町由来小誌(東小樽土地区画整理組合経緯)[1967(昭和42)年10月28日小樽市役所発行]
  2. 旧法期土地区画整理事業に関する計画史的研究[2000年九州大学大学院博士論文 池添昌幸]
この記事の内容は 関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ のはてダ「桜町」と「堺町」” によく似た表現が多数登場しますが、元資料(参考資料1)が同じなのでどうしても似てしまうのです。記事作成後に比較確認したものの、所謂パクリはありませんので念の為。
ちなみに、そのはてダは学生執筆による小論文のようですが、カテゴリ “小樽の都市民俗学” は読み応えあり。ブラタモリ小樽編から地勢的要素を抜いた感じ。
参考資料の調査にあたっては、市立小樽図書館レファレンスサービスに多大なる協力をいただきました。あらためて御礼申し上げます。