寿ロータリー

豊岡市の中心部から少し外れた、商店街とも住宅街とも言えぬ微妙な場所にあるロータリー。設計当初から設置が計画された円形交差点としては、現存する日本最古の物件と考えられる。

1909(明治42)年の山陰本線豊岡駅開業、1912(大正元)年9月の台風による水害、およびこれを機にした1920(大正9)年からの円山川直轄改修事業、1922(大正11)年からの丹後鉄道(開通時の宮津線、現・北近畿タンゴ鉄道宮津線)起工など、町発展が予感されてゆく中、当時の豊岡町長や助役であった佐川恒太郎氏、由利三左衛門氏、伊地智三郎右衛門氏らが周囲や地主を説得し1921(大正10)年5月に豊岡町耕地整理組合を設立、都市計画を実行した。具体的には、北西部の低湿地を埋め立て或いは嵩上げすることと併せて区画整理を行い、可住地の拡大と十分な道路幅を確保しようとする狙いがあった。

参考文献(昭和8年12月25日発行、豊岡町地区整理誌)によれば

(前略)其設計は固より市區の改正擴張に重を措きたれば、道路の幅員の如きも豊岡驛より東立野橋に接する一線、即ち方今の大開通は八間とし、叉た驛前より町の東北端に通ずる斜線、即ち方今の壽通りを作り其中央に小公園(即ち壽公園)を置き市中に於ける道路の中心と爲せり。此の道路は最初直線の計畫なりしが後来に慮る所ありて多少の異論を排して斜線に變更せるものなり。

此の斜線を作り、その中央に公園を置きたるは佛國巴里のプラスデーヱトアールの場所を参考し、其サンゼリ街を模倣したるものゝよしなり。此のプラスデーヱトアールは星の場所と云ひて有名なる凱旋門を中心として、恰も畫圖に顯はせる星の光の如く、其處より九つの並木の町が開け、世界一と稱さるゝサンゼリ街も其の中の一つなり。と云ふ。

其他の道路は三間・四間・五間として側溝を附したれば一部地主に於て餘りに都市計畫に偏したる嫌ありとし(後略)

プラスデーヱトアールとは、言うまでもなく現在の「シャルル・ド・ゴール広場」、エトワール凱旋門のある円形交差点を指している。
・・・と、肝心要の箇所が「将来を考えて」の一言で表現され、円形交差点を採用した真相は読み手の妄想に任されている。

区画整理の工事は昭和4年8月(昭和5年8月との説も)に完了したが、1925(大正14)年5月23日に発生した北但馬地震被災の様子を撮影した写真に寿ロータリーが写っている。大正時代に供用開始されていたと見ていいだろう。

その後、寿ロータリーは1971(昭和46)年6月に兵庫県道1号福知山出石豊岡線に、1982(昭和57)年4月には一般国道426号に指定されたが、国道426号豊岡バイパスの開通供用開始に伴い2013年12月からは市道になっている。環道への接続路は全て一時停止となっているが、国道指定から外れ交通量が少なくなったいま、ラウンドアバウトとして運用可能な印象を持つ。環道が2車線であり、ターボ・ラウンドアバウトの運用さえ可能と思える構造だ。

カテゴリーロータリー
路線市道
所在地兵庫県豊岡市泉町
実走行日2015-09-22
全景写真
下に掲げる写真の撮影位置を示す。
撮影地点:(1)
2013年までは、あの青看板に国道の「おにぎり」が描かれていた。
撮影地点:(2)
撮影地点:(3) 寿通り(国道旧道)
撮影地点:(4)
中央島(寿公園)にある銅像は町の上水道敷設に尽力した中江種造。
撮影地点:(5)
撮影地点:(6)
実は、防火水槽併設型である。当初から計画されたものではないが、いつから設置されているか未確認。
区画整理前の原形図(豊岡町地区整理誌より)
区画整理確定図(豊岡町地区整理誌より)
国土地理院公開による1947年9月23日米軍撮影の空中写真。明治の時代とはまるで違う街並みになっていたのだろう。
撮影地点:(7)
新川に架けられた寿通りの橋、第二壽橋。昭和11年9月架、と記されている。架橋されるまでどうしていたのか、第二があるなら第一もあるだろう、と興味が湧く。
ロータリーを全但バスが走る。径が大きいので余裕の走行だ。
環道沿いの歩道に設けられた案内板。まだロータリーが国道指定されている時代のものだ。
区画整理工事さなか、1925(大正14)年5月23日に北但馬地震が発生した。写真右に寿ロータリーが見える。寿通りと花園通りは開かれているが、京極筋がまだ作られていない。