恋の浜歩道橋

灘のけんか祭りで有名な、姫路市浜手の灘地区に斜張橋型式の横断歩道橋があり、その東側昇降スロープがループしている。

小学校の分離開校か統合で通学区域が変更になったから架けられたのかな?ぐらいの曖昧な理解で現地を訪問したが、橋歴板を見て理解した。「これは灘南部土地区画整理事業の歴史を紐解かないとわからんぞ」と。

江戸時代前期以前の灘地区の主力産業は漁業だったと推定されているが、近隣で鎌倉時代から行われてきた製塩の効率が徐々に高まってきたことを受けて代々の姫路藩主が塩田開発・製塩を奨励するようになったこともあり、江戸時代中期以後は製塩業が大きな割合を占めるように変わったという。

灘地区の製塩は長らく入浜式塩田であったが、昭和20年代に動力活用の目途がついて生産効率が向上した流下式塩田が採用されたこと、さらに昭和40年前後にはイオン交換膜製塩に変わったことでそれまでのような広大な土地を必要としなくなり、塩田跡地の活用方法が模索された。

入浜式塩田特有の地割が地域再開発を阻害する要因であることは明白で、市が主導して1977(昭和52)年から土地区画整理事業が開始された。国道250号バイパスが塩田跡地を貫き、住居地域と工業地域の間の緩衝帯として灘南緑道が配置された。この灘南緑道が国道250号と交差する地に架けられた橋が恋の浜歩道橋である。

歩道橋の形式選定にあたってはアーチ橋・吊り橋・斜張橋・ラーメン橋等様々な6案から主塔1本の斜張橋に決定された。当初案では両端ともループさせていたが、工費節約や敷地制約等の都合により現在の形に落ち着いたようだ。

「恋の浜」とは随分現代っぽいネーミングのように見えるが、実は平安時代には「恋(こひ)の松原」という地名が和歌に詠われていたという。この地の北4kmに播磨国分寺があり、平安時代はここ恋の浜が物資海上輸送の拠点になっていたと考えられる。厳密には国府と国分寺は異なる施設ながら当時の国司以外が区別していたとは考えにくく、「国府(こう)の浜」が「こひの浜」に転訛したのではないか。と言っても私自身が分析したのではなく、志摩にある「国府の浜(こうのはま)」を真っ先に連想したに過ぎないが。

灘南部土地区画整理事業区域の変遷

1961(昭和36)年06月06日 | 1980(昭和55)年10月09日 | 2010(平成22)年05月15日
青枠は事業区域、赤丸は恋の浜歩道橋の位置を示す。

1961(昭和36)年06月06日 製塩真っ盛りの時代。流下式塩田特有の枝条架が見える。
1980(昭和55)年10月09日 土地区画整理事業進行中。
2010(平成22)年05月15日 土地区画整理事業は1987(昭和62)年7月の換地処分を経て1991(平成3)年に完了した。
路線国道250号
所在地兵庫県姫路市白浜町宇佐崎中1丁目/木場前七反町
回転度270度
完成時期1987(昭和62)年5月23日渡初式典開催
実走行日2022-05-05
全景写真
恋の浜歩道橋全景拡大する
恋の浜歩道橋全景。東側昇降スロープ(トラックの向こう側に微かに見えている)がループしている。
恋の浜歩道橋東側昇降スロープ拡大する
恋の浜歩道橋東側昇降スロープに寄ってみる。
ええー、これを「のの字な歩道」って言うの?という異論は認める。
この歩道橋は撮影が難しいな......
橋名板は兵庫県仕様なので(略
も、文字数が多い!

《参考文献》

  • 恋の浜藻塩の郷:姫路市灘南部土地区画整理事業完工記念誌(姫路市灘南部土地区画整理組合完工記念誌編集委員会 編/1988年12月刊)
  • 戦後日本塩業史(日本専売公社/1958年7月刊)