営団東初芝ロータリー

南海電鉄高野線初芝駅の東、南海初芝ロータリーの東300mにロータリー交差点がある。
いや、確かに警戒標識「ロータリーあり(201の2)」は設けられているのだが、流入路の交わり方に違和感がある。

南海鉄道が開発分譲した初芝住宅地とほぼ隣接する場所に、昭和16年5月に半官半民で設立された住宅営団(住宅・都市整備公団の源流)が設立の年に手掛けた「東初芝住宅」であるが、宅地外周道路に接するように設けられた円形広場兼交差点だったと見られる。ここも南海初芝ロータリーと同様、防火水槽兼用型ではないことが特徴的だ。

初芝住宅・東初芝住宅ともに庶民向けの住宅という触れ込みであるが、一戸あたりの土地面積や街路設計には大きな違いがある。初芝住宅は上級労働者階級向け、東初芝住宅は一般労働者階級向けと言うべきか。現代の一般庶民にとっては、どちらも高級住宅地であるが。

堺をはじめとする泉州織物という産業を持つ地域として、また、戦争に向かう時代背景の中、都市に集まり(集められ?)始めた労働者のための住宅確保が喫緊の課題であり、また、潤沢な物資を確保できるわけでもなかったため、営団の設計による規格住宅が量産されることになったのである。
※日置荘村が寒村から大阪のベッドタウンへ変わってゆく経緯や派生する問題等については、日置荘町誌(昭和29年発行)や、山本登(元大阪市立大学教授)著「大都市社会の地域構造」が詳しい。

住宅営団は設立直後から国内各所で猛烈な勢いで住宅建設を進めており、それが故に街路設計に十分気を遣う技術者を確保できなかったことが、おかしな円形交差点を設けることにつながったのではないか。事実、同時期に住宅営団が開発した明石・藤江住宅入口の円形交差点には東初芝住宅のような違和感がない。

カテゴリーロータリー
路線府道190号西藤井寺線
所在地大阪府堺市東区日置荘北町1丁
完成時期1942(昭和17)年頃
実走行日2018-01-06
全景写真
営団東初芝ロータリーを西側から眺める拡大する
営団東初芝ロータリーを西側から眺める。古びた警戒標識「ロータリーあり(201の2)」がいい。
北西側から眺める。この交差の仕方が違和感なのだが、実はこの道路は団地の外周道路だった。
北東側から眺める。
営団東初芝ロータリーを東側から眺める拡大する
営団東初芝ロータリーを東側から眺める。ここも南海初芝ロータリー(ラウンドアバウト)と同様、高速で流出・流入する車が目立つ。
南東から。現在の中央島は五郎太石を敷き詰めただけの質実剛健タイプだが、分譲開始当時は計画通り植栽されたのだろうか。
南西から。
日本建築協会が発行する雑誌「建築と社会」1943(昭和18)年1月号に掲載された団地・建物配置図。下が北であることに注意。計画時点で植栽型の円形交差点が予定されていたことがわかる。
東初芝住宅地は、日用品配給所、集会所、診療所、公衆浴場、理髪店、交番等の施設を含めた計画総戸数430戸を1年ほどの工期で完成させる突貫・大規模プロジェクトだった。
初芝駅東側に2件の円形交差点。青枠内の円形交差点がこのページで紹介した営団東初芝ロータリーである。