木和田橋

(2004年8月27日初版記事公開 2020年1月12日記事全面書換)

道の駅・ハピネスふくえ で休憩していたときに地元のおじいさんに存在を教えてもらった橋。橋名板には昭和25年5月成と刻まれている。

その後、全国ののの字調査により、国内に現存するループ橋で2番目に古い物件(現存最古は横須賀市の十三峠陸橋)であることが判明している。

長らく気に留めていなかったが、なぜこんな僻地にループ橋を作る必要があったのか。何を運んだのか。

山口市になる前は阿東町、その前は生雲村、さらにその前は蔵目喜村であったこの地は、奈良時代初めから室町時代にかけて銅の採掘で栄えた。当時の栄華は木和田橋近くの出銅山常徳寺の庭園(雪舟作と言われるがその確証はないらしい)で感じることができる。その後、銅だけでなく亜鉛や硫化鉄も産出したが元来低品位であったこと、江戸時代末期~明治初期に発生した3度の大火もあいまってか、明治後半から大正にかけて村内の多くの鉱山が急速に休鉱・廃鉱になったという。

つまり、明治以前は萩と岩国方面を結ぶ山代街道として重要な道路であり、大正以後は自動車による鉱産物輸送の必要性は急減したものの、その歴史的成り立ちから道路の重要性は変わらなかったので継続的に整備されたということか。県道認定時期は不明ながら、大正9年時点で存在する県道萩三谷停車塲線が現県道11号萩篠生線の前身である。昭和7年の地図でも、現在の県道11号に概ね並行する県道を確認できる。

木和田橋の南には1994(平成6)年に開通した生雲トンネルがあるが、それ以前はすぐ北側の生雲隧道(現存するが通行止め)が県道であった。この生雲隧道は1938(昭和13)年に完成し、1939(昭和14)年5月に供用が開始された。

国土地理院の空中写真で木和田橋周辺を眺めてみると、1947(昭和22)年時点で木和田橋が架設されているか判別できないもののループが存在し、ループ途中から山代街道が分岐している様子がわかる。等高線から算出した最大勾配は8%程度で、当時の車道としては決して急勾配とは言えない。ただ、空中写真でもわかる程度に狭く、大正末期には萩と三谷を結ぶバス便がこの旧々道を通っていたこともあり、生雲隧道を含め線形改良及び拡幅工事が計画的に行われていたと考えられる。

国内ではほとんど例がないループ橋であることから、村史に「珍しい螺旋道路、歓喜に湧く村民」的な記述があることを期待したが、橋梁完成当時の生雲村には史実を記録した出版物はなく、合併後の阿東町誌(1970(昭和45)年刊)にも殆ど記述がない。阿東地域交流センター生雲分館発行の「いくもだより」に生雲隧道開通の記述があるが、木和田橋には言及されていない。

なお、1994(平成6)年12月に県道萩篠生線木和田バイパスが供用開始されたことにより、この木和田橋を含む区間が当時の阿東町に移管された。

先述のとおり、昭和22年時点でループが存在することから、もしかすると現在の木和田橋は昭和25年に「永久橋に再建」された可能性もあると見て、再訪時に周辺でじっくり聞き込みするつもりだったが、とにかく人がおらず不明のまま。残された時間は少ない。

路線市道木和田線(旧・山口県道11号萩篠生線)
所在地山口県山口市阿東蔵目喜(旧・阿武郡阿東町蔵目喜)
回転度270度
完成時期1950(昭和25)年5月
実走行日2004-08-27
全景写真
(2004年8月27日初訪) 木和田橋を北から眺める(2004年)拡大する
木和田橋を北から眺める。いつ頃設置されたものか不明だが、警戒標識もループを表している。律儀に橋が描かれているが、一般的な地図記号とは橋の向きが異なる。
木和田橋橋名板。「昭和二十五年五月成」と刻まれている。

(2020年9月22日再訪) 木和田橋を北から眺める(2020年)拡大する
前回とほぼ同じ場所で撮影。橋の向きが違っている警戒標識は健在であった。ところで、主桁の白いものはなんだ?前回は蔦が絡んでいて気付かなかったが。
桁側面の白いものは橋名板だった。えええ?桁に橋名板?それは珍品でしょう。
木和田橋を西から眺める。こちらの警戒標識も橋の向きが違っている。
木和田橋空撮・・・のつもりだったが、まるで樹海のような樹木成長のためループしている様子はわからない。(右下に木和田橋)
木和田橋橋名板再撮影。橋に向かって左側には両端とも取り付けられていない。

地図と空中写真で比較する木和田橋周辺道路変遷

昭和22年時点で道路の開鑿はほぼ終わっているように見える。もしかすると木橋で供用されていたかも知れない。