千里山住宅地噴水ロータリー

明治~大正期の日本では断続的にペストが流行した。大阪では第一次流行(1899~1900年)では161名の罹患者、第二次流行(1905~1910年)では958名の罹患者を出し、致死率は90%だったという。明治初期にはコレラが大流行したり、その他の伝染病も蔓延したそうだ。そんな背景からか、住居を市街地から郊外へ求める人が増えたそうだ。その影響か、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が池田や箕面に開発した住宅地は好評を博したという。

並行して、内務省主導による田園都市建設構想があり、内務省外郭団体として1917(大正6)年10月に設立された都市研究会がその住宅地プランニング(コンサルティングかも?)を受託した。その都市研究会はイギリスの田園都市レッチワースを参考にして、千里山駅と噴水ロータリー2ヶ所を中心にした放射状の街区計画を提案し、1920(大正10)年に着工、翌年には100戸が入居した。それが現在の街並みの原型になっている。

ほぼ同時期、サンフランシスコの郊外都市・セントフランシスウッドを参考にして開発された田園調布とともにガーデンシティの草分けとして土木工学や社会学の素材として取り上げられることが多い街である。

駅に近いほうが第一噴水ロータリー、遠いほうが第二噴水ロータリーと呼ばれている。第一噴水ロータリーはほぼ円形で周囲は時計回りに規制されているが、第二噴水ロータリーは正方形であり、府道に指定されている南西辺は対面通行になっている。

分譲当初は区画当たり250㎡(80坪)前後だったそうだが、現在は分筆が進んだのか建て込んだ印象の街並みになっている。

カテゴリーロータリー
路線千里山第一噴水ロータリー:6枝とも市道
千里山第二噴水ロータリー:南西辺が府道121号吹田箕面線/その他は市道
所在地大阪府吹田市千里山西4丁目
完成時期1921(大正10)年
実走行日2018-01-07
全景写真

千里山第一噴水ロータリー

千里山駅から緩やかな坂を登って第一噴水ロータリーへ拡大する
千里山駅から緩やかな坂を登ると第一噴水ロータリーに突き当たる。両側の電柱が行儀良い通行を強制している。
1枚上の写真の道路を少し前へ進んでみる。路面ペイントで左折を強制している。心理的に右折はできない。ロータリー内には噴水があり公園のように整備されている。
南側から眺める。ここは直進したくなる。導流帯(ゼブラゾーン)にガイドポストを設置してはどうだろうか。
西側から眺める。ここも両側の電柱が行儀良い通行を強制している。
北西側から眺める。
北側から。全ての流入路は警戒標識「ロータリーあり(201の2)」は設置されていないものの、一時停止で規制されている。建物が敷地いっぱいに建てられていて交差点の見通しが悪いので妥当だろう。
北東側から眺める。こちらの道路は北側一方通行なので、ロータリーへ流入する車はいない。
ロータリー外周部に設けられた案内標識。
レッチワースロードと名付けられたのは割と最近のことらしい。吹田市主導で公募されたとのこと。

千里山第二噴水ロータリー

第二噴水ロータリーを東側から眺める。
南側から(府道上から)眺める。
北側から眺める。

参考資料:千里山自治会