日本最南端の公道ループであり、最南端のループトンネルである。
現在のトンネルは1981(昭和56)年12月竣工であるが、これは夜明道路(都道240号父島循環線)の道路改良・トンネル拡張によるもので、それ以前からループトンネルは存在した。
では、以前のループトンネルはいつ作られたのか?
これがはっきりしない。
帝国海軍二〇九設営隊として昭和20年1月から11月まで父島に駐留した経験がある中道末吉氏が思い出の地を歴訪した記録「父島日誌」にループトンネルの記述がある。駐留時にこの付近を車で走行したことが書かれているが、当時ループトンネルが存在したかどうかに言及していない。
その他、国立公文書館アジア歴史資料センター、東京都公文書館、国会図書館等、様々な資料源で関係資料を探してみたが、そもそも夜明道路開鑿の記録自体が見つからない。
万策尽きて東京都小笠原支庁に先代トンネルの設置時期を問い合わせたところ、米軍施政下に帰島した欧米系住民の「米軍統治下以前からあり、日本軍が掘ったものだと思う」との証言を得たが、支庁に記録はないらしい。この回答から、旧日本軍が開鑿した可能性が益々高くなった。ただ、給金が発生する島民を徴用することなく設営隊が独力で開鑿したとしても、土地の用途変更は避けられないにも関わらず陸軍省や海軍省の記録がないのは解せない。
ともかく、長崎トンネル付近から南2km初寝浦付近の間に旧陸海軍施設が集中している。父島の要塞化を進めるため、戦前戦中に物資輸送路が作られていたことは容易に想像できる。迅速な開鑿が至上命題のはずだが、夜明山周辺はどこも急峻であり、当時のトラックに資材を積載して登坂できるような道路とするためには九十九折では限界で、ループせざるを得ないと判断されたのだろうか。父島要塞化を巡る軍と道路建設の動きを整理して開鑿時期を推定してみる。
父島主要幹線道路敷設決定 | ||
1919(大正08)年 | 12月 | 父島要塞設置決定 |
1920(大正09)年 | 12月 | 現・湾岸通りの国道特19号認定 |
1922(大正11)年 | 02月 | ワシントン海軍軍縮条約締結(発効は1923年8月) これにより、要塞機能の強化は中止 |
1936(昭和11)年 | 12月 | ワシントン海軍軍縮条約失効 |
1937(昭和12)年 | 06月 | 父島海軍無線電信所(旧海軍父島北特設望樓)は父島海軍通信隊に改編 |
1939(昭和14)年 | 04月 | 父島海軍航空隊設置 |
09月 | 特国道(軍事国道)新設の申請 | |
1940(昭和15)年 | 03月 | 逓信省航空局が父島航空無線電信局送信所設置予定地を陸軍に照会(航空無線電信局設置完了の記録は未発見) |
国道特30号、特31号認定 | ||
04月 | 国道特19号がトラック通行可能になったこと、民間には1トン積載車が1台しかないことが日産トラック2台貸与申請で報告される | |
1941(昭和16)年 | 09月 | 父島要塞司令部・重砲兵聯隊・陸軍病院を臨時編成 |
12月 | 父島要塞防空隊が長崎展望台の西側稜線上に照空分隊陣地を設置(夜明道路旧道にその陣地施設の一部である石垣が残存) | |
1942(昭和17)年 | 09月 | 中央山・乳頭山見張所設置 |
1944(昭和19)年 | 03月 | 父島要塞電波警戒隊編成、衝立山配備(国道特30号沿いと見られる) |
06月 | 夜明山に海軍通信隊送信所を設置(このページ最下部の写真参照) | |
07月 | 住民の疎開完了 | |
09月 | 夜明山海軍通信隊送信所及び海軍航空隊送信所の対空防護のため、旭山展望台西側に防空砲台(第五砲台)を設置 | |
1946(昭和21)年 | 10月 | 欧米系住民の父島帰島許可 |
1968(昭和43)年 | 06月 | 小笠原諸島の日本返還 |
昭和15年の日産トラック2台貸与申請(実際に配備されたのは昭和16年か?)以後、夜明山~中央山周辺の設営が具体的になってゆく。昭和16年の照空分隊陣地設営時点で夜明山までの経路はほぼ決定していたと見るべきであり、昭和17年の中央山・乳頭山見張所設置工事の前にトンネルを含む道路が完成していた可能性が高い。よって当サイトでは1942(昭和17)年完成と推定する。
昭和46年3月30日付、東京都知事から建設大臣に都道路線の認定認可申請が行われていて、その添付資料の路線延長調書に「夜明無名トンネル 長さ50m 巾員3m」の記述がある。覆工に関する記述はないが、素掘りだった可能性がある。
現在のトンネルは昭和56年12月竣工・昭和61年5月15日付正式供用開始で、延長70.0m、有効幅員5.00mである。
路線 | 東京都道240号父島循環線 |
---|---|
所在地 | 東京都小笠原村父島字旭山 |
回転度 | 260度 |
完成時期 | 1942(昭和17)年 |
実走行日 | 1989-06-02 |
全景写真 | |
(2019年4月12日撮影)
長崎トンネル南側(奥村側)坑口。初めてここを通るときには、この数十秒後にあの上を走るとは気付かない。 長崎トンネル扁額。竣工年月を併記してくれてありがとう! 長崎トンネル北側(初寝浦側)坑口。 その北側坑口横には、溶岩周辺部が水中で急冷却されることによってウロコ状に固まった枕状溶岩の壁が展示施設のようにある。 長崎展望台上空から全天球モードで撮影:写真右上の□でフルスクリーンにしてグリグリしてみてください
拡大する長崎トンネルを北側から俯瞰する。 1枚目の写真拡大。父島には野生化した山羊がたくさんいる。見るからに攻撃的なこの表情、ちょっと怖い。 |
長崎トンネル及び前後道路の改良に伴い旧道となった区間に隣接する照空分隊陣地(発電車庫)の石垣
空中写真で比較する長崎ループ ビフォー・アフター
1969(昭和44)年2月18日撮影と2014(平成26)年2月24日撮影。小笠原諸島の日本返還は1968(昭和43)年6月26日であるが、わずか8ヶ月でトンネルを含む道路を建設できるはずがない。夜明山・中央山方面に米軍施設は設けられなかったので米軍が建設したとも考えられない。戦前戦中に作られた可能性が高い。
地図で比較する長崎ループ ビフォー・アフター
1935(昭和10)年地図と1968(昭和43)年地図。1935(昭和10)年にはそもそも車両通行可能な道路がない。現地測量1968年11月の時点でループ形式のトンネルが存在した。
《おまけ》初寝浦の旧帝国海軍通信隊施設跡、1989年と2019年
1989年。東海大学エェ・・・
ちなみに、この学術調査団の成果をCiNii等で検索したが該当する論文なし。何しに行ってんだか。
2019年。外壁が一度白く塗られたようだ。30年という時の長さを感じる樹木の成長ですな。
- リンクしていない参考文献
-
- 都道路線の認定認可の申請について(東京都公文書館所蔵 45建道路一第126号の3/1971年)
- 父島日誌(中道末吉/1983年)
- 小笠原村戦跡調査報告書(小笠原村教育委員会/2002年)