栄町江の島住宅ロータリー

多摩モノレール泉体育館駅近くの住宅街にロータリー交差点がある。立川方面のことはほとんど知識がなく、市営住宅建設時に整備したんだろうとぼんやり考えていたが、過去の空中写真を見て認識を改めた。戦前に既に原型となる防火水槽が存在していたのだ。

周辺の歴史を丁寧に調べ、また、周辺住民の証言を合わせると、この地は立川飛行機の工員住宅または附属病院の職員寮だったことが判明した。

1930(昭和05)年 石川島飛行機製作所が京橋区月島(現在の勝どき)から立川町(現・立川市)へ移転、立川工場開設
1936(昭和11)年 07月:石川島飛行機製作所は立川飛行機へ商号変更
立川町に隣接する砂川村に砂川工場開設を決定
1938(昭和13)年 砂川工場操業開始,附属診療所開設
1940(昭和15)年 立川町が立川市になる
1941(昭和16)年 高松寄宿舎を設置
1942(昭和17)年 附属診療所を附属病院に改編,江ノ島寄宿舎及び附属病院寄宿舎設置
1945(昭和20)年 02月16-17日,04月04日,04月24-25日:立川飛行場周辺空襲
いずれかの空襲で、現在の栄町江の島住宅付近の寄宿舎3棟が焼失した模様
09月:連合国軍により立川飛行機工場・病院・寄宿舎等施設接収
1949(昭和24)年 江ノ島寄宿舎・病院寄宿舎が接収解除
1954(昭和29)年 砂川村が砂川町になる
1956(昭和31)年 砂川町が江ノ島寄宿舎・病院寄宿舎跡地に町営住宅建設を決定
10月31日砂川町議会において砂川町営住宅使用条例議決
1963(昭和38)年 砂川町が立川市に編入される

昭和16年の空中写真では一面の田畑だったが、昭和19年には整然と並ぶ建物と円形の防火水槽2件を確認できる。また、東側の防火水槽は戦後すぐに廃止されている(湛水されていない)。立川飛行機寄宿舎の時代は防火水槽の周囲を道路が囲む形ではなかったが、昭和31年の町営住宅建設に伴い外郭道路が整備されたことが昭和31年及び昭和32年の空中写真で判別できる。

疑問は、町営住宅建設時になぜ円形交差点にしたか?という点だ。防火水槽が長らく放置されたが故に戦争遺構として残そうとしたのだろうか。いや、それなら解説板を設置するだろう。頑丈な構造なので工期短縮のために破壊せずに活用する道を選んだのか?謎は尽きない。

路線市道東37号線/市道東P18号線
所在地東京都立川市栄町6丁目
完成時期1956(昭和31)年
実走行日2020-06-27
全景写真
栄町江の島住宅ロータリーを南西側から眺める拡大する
栄町江の島住宅ロータリーを南西側から眺める。線形誘導標で右回りを案内するだけで、警戒標識「ロータリーあり(201の2)」は設置されていない。中央島は昔の防火水槽と同径のようだ。掘れば防火水槽のコンクリートが出てくるのだろうか。なお、現在は右側(南側)の江の島南公園地下に防火水槽が設けられている。
栄町江の島住宅ロータリーを北西側から眺める拡大する
北西側から眺める。この道路はかなり狭隘で、環道へ乗り入れる前に自ずと一時停止する。
栄町江の島住宅ロータリーを北東側から眺める拡大する
北東側から眺める。環道走行車もさることながら、公園から出てくる歩行者や逆走する自転車に要注意だ。

空中写真で戦前戦後を比較する
Before
After

左:1944(昭和19)年11月撮影と右:2008(平成20)年05月撮影。
昭和19年時点で防火水槽が2件設置されていること、踏み分け道が防火水槽の際で弧を描く様子を確認できる。この防火水槽のおかげで、11棟あった寄宿舎全棟の焼失を免れたのかも知れない。

Before
After

左:1947(昭和22)年11月撮影と右:2008(平成20)年05月撮影。
昭和22年時点で東側の防火水槽は既に用途廃止されたようで、湛水されていない。

 
参考資料:

  1. 福生新聞160号(昭和31年11月5日)
  2. 東京地方裁判所八王子支部 昭和52年(ワ)812号判決

この交差点の存在はwestantennaさまから情報を戴きました。