舞鶴橋


日本最初のループ橋と言われる舞鶴橋。深耶馬渓からさらに奥に進んで玖珠町に位置するが、既に地中に埋もれていて今となっては当時の絵葉書でのみ見ることができる。

ふーん、埋めちゃったの?

なんで?

本記事では、様々な断片的情報を繋ぎ合わせ、埋められた経緯を推測してみる。


古絵葉書から存在時期を推測

まずは、筆者が収集した古絵葉書を見てみよう。

ループ橋時代の初代舞鶴橋全景拡大する
現地の頌徳碑前にも展示されている舞鶴橋の代表的な写真。「の」を左右反転させた線形の道路である。人力車が2台と、橋の向こう側には荷馬が見える。これらの大きさを考慮すると、道路幅員は4m程度か。

豊前中津の広津(廣津)商店発行と記されているが、一般の絵葉書と同様に発行年の記載なし。宛名面の特徴から、1907(明治40)年から1918(大正7)年に発行された可能性が高い。広津商店は中津市新博多町にあり、中津周辺の絵葉書や耶馬渓観光案内を出版していたらしい。「舞出橋 Maide Bridge」と表記されているのはどういう事情か?

別視点から見た初代舞鶴橋
拡大する

別視点から見た舞鶴橋。

単径間の石造アーチ橋で、崖側は間知石で擁壁が組まれている。取り立てて珍しい構造ではない。拱矢は4.5m、橋台が1mぐらいありそうなので桁下高さは5.5m程度。これに土被りが2m、要石厚さの0.4mを加えると、路面の標高差は8m程度か。

こちらも広津商店発行のもの。宛名面の特徴から、1899(明治32)年から1910(明治40)年に発行された可能性が高い。つまり1枚目よりこちらのほうが古い。「舞鶴橋 MAIDURUHASHI」と表記されていた。

その他に入手した2枚。なんと「舊舞出橋附近」「新開道」と。「舊」は「旧」の旧字体であり、この時点で舞鶴橋が「旧」になっていることがわかる。こちらは宛名面に特徴なく、1932(昭和7)年以前の発行ということしかわからない。

村上医家史料館で調査

現地の頌徳碑前に設置されている解説板に、この道路(中津玖珠道路)建設を主導したのは村上田長氏であること、氏の資料が中津市の村上医家史料館で公開されていると記されている。

中津市諸町にある村上医家史料館。田長の生家であり、医院が開かれていた。絵葉書を発行した広津商店はすぐ近くにあったと見られる。

展示資料のうち、舞鶴橋に関するものはこれだけ。いや、これこそが大事だ。構想段階で描かれたものだろうが、当初は木橋を予定していたのだ。木橋のほうが低コストで建設できるにも関わらず、現実に架けられたのは石橋。どんな判断があったのだろうか。

地図から存在時期を推測

地図にはどう描かれているか。版を追って見ていけば、なくなった時期を絞り込めるだろう。

Before
After

中央のスライダーを左右に動かして比較してみよう。

左:1903(明治36)年 測量地図 舞鶴橋が記載されている
右:1927(昭和02)年 要部修正地図 舞鶴橋はあるがループせず、道路は谷筋に沿って大きく迂回している

大正年間に何らかの理由で道路が付け替えられ、舞鶴橋は存在したまま廃橋になったようだ。

なんで?

文献調査

道路史調査の基本は自治体史。1965(昭和40)年発行の玖珠郡史に以下の記載がある。

中津港道の開作
(前略)種々苦心の末、明治二十四年の秋始め開通した。(工事費二千五百余円)
その後この道路は洪水の害にあい崩壊し、雨雪のため泥ねいとなり、たびたび改修を加え、中村郡長の代に至って県費支弁道に編入された。現在では柿坂で大分交通耶馬溪線の鉄道に連絡し、最も交通ひん繁な道路となった。この間大正十年より三ヵ年計画により鹿倉よりの急坂をさけるため改修工事を行なった。(後略)

「鹿倉よりの急坂」が舞鶴橋前後を指していることは明白で、この工事で道路が付け替えられたと考えてよい。しかし、改修の主目的が土砂災害復旧なのか勾配緩和なのかがはっきりしない。

玖珠郡でバスの運行が始まったのは昭和6年であり、大正後半時点で大分県や熊本県で自動車が普及していたとは言えない。ただ、舞鶴橋前後のカーブを当時の自動車(T型フォードが主流)が切り返しせずとも通行できたかは微妙なところ。水害による土石流・地すべりまたは他の原因により舞鶴橋前後の道路が崩落、それを機に道路曲率緩和の時機にあると判断して新道建設が決定されたのだろうか。

きっかけとなった災害を大分県災害誌と大分県災害データアーカイブ、さらに当時の新聞で調べてみる。

災害史調査結果と年表

ここまでの調査結果を以下に年表形式で整理する。

1886(明治19)年村上田長、玖珠郡長に就任(1890年に解任)
1889(明治22)年中津玖珠道路着工
1891(明治24)年秋初代舞鶴橋(橋長17m?)・初代鹿倉隧道完成
1893(明治26)年10月台風10号被害
1903(明治36)年測量地図 舞鶴橋記載
1906(明治39)年村上田長逝去
1918(大正07)年07月台風5号被害(山国川と大分川流域で大きな被害)
1920(大正09)年03月戦後恐慌(大正恐慌) – 大規模な救済融資により半年で沈静化
1921(大正10)年06月大雨被害(九州では主に筑後川流域で大きな被害)
1922(大正11)年仰見橋完成 橋長3m
1923(大正12)年03月村上田長、玖珠郡長から表彰状(新道開発が流通・観光に役立ったことへの感謝)
1927(昭和02)年要部修正地図 舞鶴橋はあるがループせず
1928(昭和03)年06月大雨被害
1931(昭和06)年07月大雨被害
1940(昭和15)年皇紀2600年紀念 頌徳碑建立(ただし、現在位置とは異なる可能性あり)
1957(昭和32)年紅葉橋完成 橋長3.8m
1967(昭和42)年現・舞鶴橋完成 橋長32m
1973(昭和48)年深渓橋完成 橋長11m
1974(昭和49)年鹿倉トンネル完成
1984(昭和59)年頌徳碑周辺美化工事
2006(平成18)年里の駅 鹿倉休憩舎完成(2014年07月閉鎖)
2017(平成29)年04月日本遺産 Japan Heritageに認定された「STORY #054 やばけい遊覧 ~大地に描いた山水絵巻の道をゆく」に村上医家史料館で公開されている舞鶴橋付近の計画図と村上田長頌徳碑が含まれている。
2021(令和03)年03月鹿倉休憩舎解体工事完了

大正10年大雨被害の詳報

1921(大正10)年6月9日から18日にかけて梅雨前線の活発化により九州北部で集中豪雨となった。特に筑後川流域に被害が多く、筑後川三大洪水のひとつに数えられるほど大規模災害だったようだ。(大分県災害データアーカイブの記事

当時の大分新聞(現在の大分合同新聞)を精読したところ、21日頃までに橋が流されただの土砂崩れで道路が不通になっただのの記事は多数あったが、舞鶴橋に関する記事はない。半ばあきらめて、1918(大正7)年台風被害を確認しようとした矢先、注目すべき記事にたどり着いた。
1921(大正10)年6月23日夕刊4面である。

深耶馬
道路崩壊す

下毛郡城井村大字柿坂字岡島より玖珠郡森町に通ずる縣道長さ八十四尺高さ約三十尺の石垣二十一日朝崩壊車馬の通行杜絶せり

舞鶴橋と明確に記されているわけではないが、この県道が森耶馬溪線であることは疑う余地なく、長さ84尺=25m・高さ30尺=9mという規模の石垣は舞鶴橋前後の法面以外に考えられない。

考察

現代の大分県 土砂災害警戒区域等情報インターネット提供システムを見ると舞鶴橋周辺が土石流とがけ崩れの土砂災害警戒区域に指定されている。

大正10年6月の大雨に起因して路盤・擁壁が崩壊し、舞鶴橋は事実上通行できなくなった。復旧しても急速に普及しつつある自動車交通を捌ける道路ではなく、勾配及び曲率緩和を同時に為すべしと判断されて新道を建設することになり、翌年には仰見橋が完成した。道路を失って初めて村上田長の先見性と偉大なる取り組みに気付いて、復旧工事完了後の1923(大正12)年に故人に対して表彰という行動に繋がったと考えてみた。(おお、プロジェクトXっぽいぞ)

なお、1947(昭和22)年と1948(昭和23)年に米軍が撮影した空中写真を見ても舞鶴橋の痕跡は見当たらない。頌徳碑が建立された1940(昭和15)年時点で完全に埋められていたと考えてよいだろう。

村上医家史料館で公開されている資料には「舞出橋」「舞鶴橋」が混在しており、当初は「舞い出る(まい・いずる)」の意味を持たせて「舞出橋(まいずるはし)」と仮称されていた可能性がある。村上田長がそう考えていたのか彼の部下が聞き間違えたのか真実はわからない。一部の絵葉書で「舞出橋」と表記されているのはそういう事情だろうか。

或いは、大分市内、1876(明治9)年に大分と佐賀関を結ぶ愛媛街道が開通した際に大分川に架けられた津留橋の愛称(通称か?)が舞鶴橋であったので、それとの混同を避けるために(当初は舞鶴橋と名付けたものの)後年に舞出橋へ改名したのかも知れないと想像してみた。

推定道筋と現地調査

舞鶴橋が現存していない経緯がだいたいわかったので現調に出かけよう!

(以下、赤枠の写真はマウスオーバーや画像タップで旧道経路等を表示)

①深渓橋付近

明治の道筋と大正の新道が分岐する地点から標高差25mを一気に駆け上がる。

(1) 深渓橋から眺める新旧分岐点

深渓橋付近で新道(現道)が分岐する1973(昭和48)年完成の深渓橋(しんけいばし)。2代目かも知れない。この橋のすぐ南で新道(現道)は大きく東へ迂回する。旧道は直進するはずだが…

深渓橋付近拡大10メートルほど進入してみたが転石の座りが悪くて危険極まりない。廃道になって100年経過すると、さすがに道筋を見分けることは無理のようだ。明治の旧道が舗装されていたとは思えず、深追いしても得られるものなしと判断して撤退した。

(2) 仰見橋

仰見橋(おおみはし)は大雨被害翌年の1922(大正11)年完成…のはずだが、撮影が一足遅かった。長寿命化工事という名の事実上の架替えが施工済みだ。

(3) 紅葉橋

沢に降りて1957(昭和32)年完成の紅葉橋(もみじはし)を眺める。

手前の石積みが昭和32年に施工した橋台だろう。奥のカルバートは1973(昭和48)年~1974(昭和49)年に行われた拡幅整備(この整備で深渓橋及び鹿倉トンネル完成)で施工されたものだろうか。それほど古くは見えないので後年の施工かも知れない。
なお、冒頭に掲げた古絵葉書の4枚目、舊舞出橋附近の勝景はこの紅葉橋付近を撮影したもの。

②舞鶴橋付近

大正の新道を辿って鹿倉休憩舎跡地(頌徳碑)まで歩く。

(4) 筆岩を眺める地

筆岩を眺める地で100年前と現代の風景を比較冒頭に掲げた古絵葉書の3枚目はここで撮影されたようだ。100年前と稜線や岩の形状・位置関係が同じだ。

玖珠町史によれば玖珠町側の改良舗装工事(幅員4mから5.5mへの拡幅整備)は1965(昭和40)年度から1981(昭和56)年度にかけて行われたとのことで、大正~昭和中期の40~50年間はこんな道路だったのだ。

(5) 新(現)舞鶴橋

新(現)舞鶴橋新(現)舞鶴橋は1967(昭和42)年12月完成。それ以前の道路敷がすぐ横にある。この橋を舞鶴橋と名付けた玖珠土木事務所、偉いぞ!

(6) 旧舞鶴橋北詰

旧舞鶴橋北詰旧舞鶴橋の北詰にあたる場所。2020年までは鹿倉休憩舎が建っていたので立ち入りにくかった。明治時代の道筋を妄想してみる。

(7) 路盤崩落(土石流?)発生推定地点

路盤崩落(土石流?)発生推定地点頌徳碑の裏手付近で、1921(大正10)年6月21日に発生した路盤崩落の状態を想像してみた。復旧よりも新道付け替えと決断させるほどの事態であり、被害はここだけではなかったかも知れない。

(8) 明治の道筋と大正に付け替えられた新道の接続地点

明治の道筋と大正に付け替えられた新道の接続地点旧鹿倉休憩舎敷地入口付近に明治の道筋と大正に付け替えられた新道の接続地点がある。1974(昭和49)年鹿倉トンネル完成をもって車道としては使われなくなった。

③鹿倉トンネル付近

鹿倉休憩舎跡地から鹿倉隧道方面へ踏み込んでゆく。廃道化して既に54年、それなりに険しい道のりだ。

(8)地点から(9)地点へ向かう途中にある擁壁。明治の道筋を整備するときに築かれたものだろう。野面積みだが、いままで無事に残っていたことが不思議に感じるほど甘い積み方じゃないか?崩落した法面の施工もこんな品質だったのかも知れない。

(9) 鹿倉隧道の北側(中津側)坑口

現道を走行する自動車の音を頭上から聞きながら旧道を歩く。鹿倉隧道坑口が見える頃、ようやく足元の土砂がなくなってアスファルトが見えてくる。昭和49年時点で旧道は舗装されていた。

1891(明治24)年完成の鹿倉隧道(かくらずいどう)、トンネル長118m。中津側坑口の前に建つ斜めのポールは電柱支柱。この場所まで旧道沿いに電線路があり、ここから現道沿いへ引き上げ、さらに峠を越える。その左側に見える縦のポールのようなものは、現道側溝の排水管である。つまり旧道は排水路として活用されていることになる。

鹿倉隧道内に入ってみる。後年に吹き付けたであろうモルタルが剥落しているが、肌落ちはほとんど見られない。地質は流紋岩(溶結凝灰岩)で、およそ100万年前に猪牟田カルデラの活動により噴出した耶馬渓火砕流の堆積物である。流紋岩は一般的に肌目が細かく硬いことが特徴であり、村上田長を悩ませた工事費増大の一因だった。

徒歩で通行する場合は頭上クリアランスはほとんど気にならない。しかし、昭和初期には玖珠自動車交通株式会社(その後、耶馬溪鉄道株式会社が路線権買収)がこの道路を経由したバス運行を開始した。当初のバスはT型フォード(フォード・モデルTTシャーシ)だっただろうから通れただろうが、戦後徐々に大型化してゆく過程では「鹿倉隧道専用車」が確保されていたかも知れない。

玖珠町史には大分合同新聞から引用・参照する形式で次の記述がある。

昭和四十九年になると、「進む玖珠町の鹿倉トンネル改良工事」とあり、従来のトンネルは人道用に使い、南側に新トンネルを設け、幅六メートル、高さ四・五メートル、長さ七〇メートル、工事費は約一億一七〇〇万円かけている。このトンネルが完成すれば秋の観光シーズン中の交通渋滞はかなり緩和されると期待がかかっていた。

なんと、鹿倉トンネル完成後もしばらくは鹿倉隧道が現役だったかも知れないというのだ。

(10) 鹿倉隧道の南側(玖珠側)坑口

現道が緩くカーブする外側にあたる地点であり、路外逸脱事故の衝撃を軽減する意図か旧道が途中まで埋められていて、鹿倉隧道坑口と現道の間の経路を慎重に選ぶ必要がある。様々なものが落ちているが、廃道あるあるだ。心配ない。

旧道と現道の分岐点昭和49年まで、県道はここを直進して鹿倉隧道に続いていた。

(おまけ) 鹿倉トンネル北側坑口

1974(昭和49)年完成の鹿倉トンネル。

扁額がなくなったのか、これが扁額なのか、よくわからない。

まとめ

  • 日本最初のループ橋・舞鶴橋は中津と玖珠を結ぶ道路建設の一環として着工、1891(明治24)年秋に完成した。構想段階では木橋だったが、石橋で施工された。舞出橋(まいずるはし)と表記されていた可能性がある。
  • 1921(大正10)年6月21日、10日近く続いた大雨に起因して路盤・擁壁が崩落し、舞鶴橋付近の道路が通行できなくなった。自動車交通が増えつつある時代背景があり、復旧ではなく新道に付け替えられることになった。
  • 大正末期乃至は昭和2年頃までは舞鶴橋自体は残っていたが、その後昭和15年までに完全に埋められた。
  • 舞鶴橋があった付近に、道路建設を計画した村上田長を讃える頌徳碑があり、日本遺産の構成文化財になっている。
  • 舞鶴橋廃橋の46年後に同名の橋がすぐ近くに架けられ、現存している。

実は私に本当の父がいることが判明し、その遺産・数百億円を相続することがあれば、舞鶴橋発掘復元をこの手で成し遂げたい。

村上田長の偉業を讃える頌徳碑だが、達筆すぎて碑文は解読困難。「田長村上先生頌徳碑」か?
皇紀2600年夏に建立されたことが刻まれているが、当時からこの位置に置かれているのか確認する術がない。

舞鶴橋跡・鹿倉休憩舎跡地拡大する
舞鶴橋はこの下にある。2020年暮れぐらいまでは「里の駅 鹿倉休憩舎」という休憩施設があったが、2021年になって解体工事が行われた。

鹿倉休憩舎跡地の北端はこのように急傾斜で谷に向かっている。ここに転がっている石は舞鶴橋または前後道路の擁壁・法面を構成していた石材だろうか?

路線中津玖珠道路(現・大分県道28号森耶馬溪線)
構造単径間石造拱橋
所在地大分県玖珠郡玖珠町森
回転度270度
完成時期1891(明治24)年
初回訪問日2004-08-23

あとがき

すっきりした結論の獲得を期待して2004年の初訪直後から調査を始めて17年、なんとか纏めることができた。2021年は舞鶴橋完成130周年・廃橋推定100周年であり、これを節目に公開する。公開を機に、新たな情報が寄せられることを少しだけ期待しよう。

参考文献

  • 大分ケーブルテレコム「伝えたい、日本のこころ」 風之荘「円相」94村上田長
  • 玖珠郡史(1965 玖珠町)
  • 玖珠町史 中巻(近現代-現況)(2001 玖珠町)
  • 大分新聞 DVD版 2号(明治22年6月7日) - 15442号(昭和17年3月31日) (2014 大分合同新聞)
  • 大分県災害誌 資料篇(1952 大分測候所)
  • 大分県地学の散歩(1983 大分県高等学校理科・地学部会)