地理院地図の年代別写真を見ていて、その昔、水島に円形交差点があったことを知った。現在の亀島交差点と五福小学校西交差点である。
まずは1961(昭和36)年07月18日 国土地理院撮影 の空中写真を見てもらいたい。
亀島交差点。当時は三叉路であった。
五福小学校西交差点。中央分離帯を持つハイスペックな道路の十字路と言うべきか、八叉路と言うべきか。
この円形交差点は川に架けられた2本の橋を環道の一部にしている様子で、とても珍しい構成である。Googleストリートビューで現地を確認すると、どうやら当時の橋の高欄らしきものが残っているように見える。また、そのすぐ南には別の橋が川に直交せずに微妙に斜めに架けられている。しかしその前後に道路はない。これはいったいどういうことか。疑問を持って数年、ようやく現調の機会を得たのでレポートしておく。
目次
水島と高梁川の歴史を復習
そもそも、水島とはどういう土地なのか。
筆者はこのレポートを書くまで、岡山県水島市(または水島町)なる自治体が存在したものだと思いこんでいた。小学生のときに刷り込まれた「水島コンビナート」から勝手に連想しただけだが。
実際には旧・連島町の一部で、狭義の連島と旧・福田町の間に位置し、昭和に入ってからの新開地が水島である。なぜ昭和になってから開けたのか。
ここで高梁川の歴史を見ておく。
江戸時代
江戸時代、上流域の新見周辺ではたたら製鉄が盛んに行われたこと(特に鉄穴流しという砂鉄採取工法)により流出土砂が増えた一方、総社以南の下流域は元々低平地であったことから、大雨や高潮等の自然災害で大きな被害を受ける傾向にあった。
明治~昭和20年
1893(明治26)年10月洪水をきっかけとして、1907(明治40)年に内務省直轄工事として高梁川大規模改修に着手、1925(大正14)年の同工事完成により東高梁川は廃川となった。その最下流に位置するのが水島で、河道埋め立て・沖合干拓により生まれた広大な土地へ三菱重工業航空機製作所を誘致したことは岡山県臨海部を工業地帯として発展させる大きなきっかけになった。
水島の街区設計を実質的に行ったのは三菱重工業であろう。同社の名古屋航空機製作所からの転勤者が多かったため、覚えやすいように名古屋の地名が水島に採用されたと聞く。街区設計にあたっては、工場地区と居住地区の間に防火帯として機能させるべく36m(20間)の緩衝地帯を設けた。その概念は現在も公害防止の緩衝緑地として活きている。
その水島の中央部、東高梁川旧河道のほぼ中心線上に流れる川が備前国と備中国を分ける八間川である。八間川は倉敷絹織本社工場(倉敷絹織は現在のクラレ、本社工場は現在のイオンモール倉敷と酒津公園の間)の排水路として整備された。水島臨海鉄道浦田駅の南で浦益地区からの農業排水路と一緒になり(ただし、混流させないように間に隔壁が設けられ、右岸側に工業排水路、左岸側に農業排水路が流れる)、三菱自動車水島製作所北側を経て倉敷みなと大橋付近で高梁川に注ぐ。
昭和21年~昭和40年
水島という街が作られて4年もたたないうちに終戦となったが、戦後直ちに三菱重工業 水島機器製作所として再発足、民需工場への転換を図った。1946(昭和21)年に小型三輪トラック「みずしま」、1959(昭和34)年に中型トラック「ジュピター」、1960(昭和35)年に軽商用車「三菱360」等、時代の波に乗って生産を拡大するようになると、当然水島の街並みも整備が必要になってくる。
GHQ連合国軍総司令部の指示かわからないものの、増加した交通量を安全に捌くことを意図してか、上記緩衝地帯道路(現在の岡山県道428号倉敷西環状線)の主要交差点2箇所にロータリー交差点が設けられた。
特に青葉(五福小西)交差点は以前の橋の位置をずらして架替え※ており、ロータリー化という意図を持っていたことがわかる。そんな経緯なので、八間川通りは今も川の両側それぞれが一方通行で規制されているのだ。それにしても、中央島に相当する場所が川というのはなかなか斬新的だ。夜間や霧の日は川へダイブした車もあっただろう。
架け替えられた橋は、東行(北側)が「潮見橋(または汐見橋)」、西行(南側)が「くすのき橋(または楠橋)」である。三菱自動車水島製作所グループの親睦団体名称は「くすのき会」である。アリオ倉敷(倉敷紡績倉敷工場跡地)には「くすのき広場」がある。倉敷市の木はクスノキであるが、1971(昭和46)年12月1日に制定されていて、市の木を由来として橋をネーミングしたわけではないものの、倉敷とクスノキは縁が深いのだろう。
昭和41年~
さらに他社工場も相次いで水島に進出した結果、水島の街中に車があふれることになりロータリー交差点では処理しきれなくなって、1966(昭和41)年春頃には青葉(五福小西)交差点が、1988(昭和55)年春頃には亀島交差点が、それぞれ信号制御に改修された。青葉(五福小西)交差点は一方通行だった2つの橋の間に橋を架け、橋上の幅員はなんと60mになった。
岡山県道428号倉敷西環状線にはそんな背景があったことを頭の片隅に置きながら、道路の変遷を確認してみよう。
倉敷市水島のロータリー交差点群 変遷
路線 | 岡山県道428号倉敷西環状線 |
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所在地 | (亀島)岡山県倉敷市亀島1丁目 |
(青葉)岡山県倉敷市水島青葉町 | |
存在時期 | (亀島)1950(昭和25)年頃~1988(昭和55)年春頃 |
(青葉)1955(昭和30)年頃~1966(昭和41)年春頃 | |
実走行日 | 2020-09-24 |
全景写真 | |
亀島交差点拡大する亀島交差点2002(平成14)年に川崎通1丁目交差点~亀島交差点間が開通して十字路になった。正面は亀島山。太平洋戦争末期、三菱重工業の地下工場が作られた。 青葉(五福小西)交差点拡大する青葉陸橋上の西側から眺める五福小学校西交差点。青葉陸橋は1968(昭和43)年3月完成。 五福小学校西交差点の南側の橋梁親柱を西側から眺める。橋名板は「くすのきはし」と読める。 「くすのきはし」を反対側(東側)から眺める。昭和30年3月竣工と刻まれている。 五福小学校西交差点の北側の橋梁親柱を東側から眺める。「志おみはし」と刻まれている。 「志おみはし」を西側から眺める。昭和29年3月竣工と読める。 拡大する 五福小学校西交差点を南側から眺める。路面の色が違う部分は八間川に架けられた橋梁(カルバートかも?)である。さて、「くすのきはし」と「志おみはし」の間はなんという名の橋梁だろう? 青葉(五福小西)交差点南の八間川橋梁拡大する「くすのきはし」から眺める古い橋梁。高欄の形状から推測するに、昭和ヒト桁の架設か? なお、八間川はこのように工業排水路(写真左側)と農業排水路(写真右側)が隔壁ひとつで流れる。 橋の両側とも親柱の橋名板はなかった。管理者が外したのか、外れたのか。八間川通りの道路面よりもこの橋梁の床版上面が50cmほど高い位置であること、親柱は交差点橋梁(志おみはし・くすのきはし)親柱によく似ているが微妙に異なることに注目したい。なお、青葉(五福小西)交差点が改良された1966(昭和41)年春頃の時点で既に橋梁として機能していなかった可能性が高い。 |
さて、その青葉(五福小西)交差点の南に架かる橋は前後に道路がないにも関わらず、なぜ斜めに取り付いているのか。これは現調してもわからなかった。帰宅後に古地図を見てようやく判明、どうやら三菱重工業が水島に進出する以前にここを東西に通っていた村道のようだ。つまり、八間川整備~昭和16年に架設されたということだ。明らかに古い時代のコンクリート、現在の道路面よりも高い位置の橋梁床版上面。古い村道は旧東高梁川の土手高さに合わせて盛土で摺り付けられていて、その高さに合わせた床版面ということだろうか。
五福小学校西交差点 ビフォー・アフター
左:陸軍参謀本部 明治37年測図 大正14年第2回修正測図「玉島」
右:地理院地図(2021年1月現在)
亀島山東麓から東高梁川河道跡を渡って福田村へ向かう道路は幅員2m以上3m未満の町村道で、旧東高梁川の岸高は1.5mであった。その向きと現代に残る謎の古い橋梁の向きが一致しているように見える。
参考資料
- 知っていますか?水島コンビナート – 倉敷市水島コンビナート活性化検討会
- 八間川調査隊 – 公益財団法人水島地域環境再生財団
- 岡山県の近代化遺産 – 岡山県教育委員会
- 高梁川水系河川整備計画 – 国土交通省中国地方整備局岡山河川事務所