岐阜県の中濃と呼ばれる地域にある可児市。愛知県犬山市に接し、北は木曽川が流れる。かつて名を馳せた「日本ライン下り」は可児市と対岸の美濃加茂市から出発していた。日本ラインとは、可児市・美濃加茂市~犬山市の木曽川沿いの渓谷である。愛知県出身の地理学者・志賀重昂が犬山を訪れた際に、木曽川の風景をドイツに流れるライン川に例えたことからこの名が定着したと言われる。確かに、ローレライのイメージになんとなく似ている。
そんな可児市の中心部から少し南西に位置するニュータウン内にロータリー交差点がある。
ニュータウンの名は「日本ランド」。
可児町に開発された住宅団地を古いものから順に3件挙げると
1 | ニューパーク日本ランド つつじヶ丘 |
工事期間:1965(昭和40)/08~1965/12 計画戸数・人口:99戸/356人 1975(昭和50)/04時点の入居状況:12戸 造成業者名等:可児町土地開発公社 |
2 | ニューパーク日本ランド 矢戸 |
工事期間:1968(昭和43)/01~1969/02 計画戸数・人口:165戸/594人 1975(昭和50)/04時点の入居状況:10戸 造成業者名等:大栄住宅㈱ |
3 | ニューパーク日本ランド 禅台寺 |
工事期間:1968(昭和43)/06~1969/10 計画戸数・人口:228戸/820人 1975(昭和50)/04時点の入居状況:53戸 造成業者名等:大栄住宅㈱ |
と、おそらく可児町が団地開発を推進、実体は大栄住宅が担ったと見られ、ブランド名は「ニューパーク日本ランド」で統一されていたのだ。
「日本ライン」にあやかったことがミエミエだが、先述のとおりライン川に由来するものだから「ライン」を「ランド」に付け替えるのは履き違えで、その結果、随分大きく出たネーミングになってしまった。
ここで、日本ランドの家屋建造の状況を見てみよう。
日本ランドの経年変化
1969(昭和44)年 | 1975(昭和50)年 | 1982(昭和57)年 | 1987(昭和62)年 | 2013(平成25)年
造成直後。既にロータリー交差点が存在している。回転資金を得るために造成中から販売することが多い現代の感覚からすれば、建物が全くないのは違和感しかない。 | |
1975(昭和50)年10月 | 造成完了から7年近く経過するが建造家屋は7軒。もしかしたらエスポラン瑞浪のように水道を引けていないんじゃないか? |
1982(昭和57)年11月 | 造成完了から14年近く経過してもなお1/4程度。この事業、大丈夫か…?(公庫融資等の貸付審査が厳しく、当時の庶民には手が届かなかったのが真実か?) |
1987(昭和62)年10月 | ようやく半分ぐらいか。 |
2013(平成25)年04月 | 建造家屋数がピークの頃とみられる。 |
と、事業としては失敗を暗示させる惨憺たる状況だが、大栄建設はバブル景気までは絶好調だったようで、可児市内に同社が手掛けた住宅団地がいくつかある。
ロータリー交差点に目を向けてみると、中央島には花壇がある他は行政無線の塔ぐらいで、この時期の住宅団地内ロータリー交差点としては消防水利が設けられていないところが逆に珍しい。手書きの看板で右回りを誘導(現地掲示は、ありがちな「左回り」)しており、公安委員会の規制はない。警戒標識「ロータリーあり(201の2)」もない。もしかすると、この団地内道路はまだ市道移管されていないのかも知れない。
路線 | 市道?私道? |
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所在地 | 岐阜県可児市矢戸 |
完成時期 | 1969(昭和44)年2月 |
実走行日 | 2022-05-03 |
全景写真 | |
日本ランドのロータリー交差点を西側から眺める。団地外の来訪者は最初にこの向きで通る。 拡大する 北側から眺める。右角にある公民館の物置小屋が際に建てられていて、見通しを悪くしている。ラウンドアバウトに指定するなら撤去は必須だな。 拡大する 東西方向の道路だけ、中央島を直進しても乗り越えられる構造になっている。意図したものだろうか? 南側から眺める。手書きの「左回り」(いや、右回りだろ!)で回転方向を誘導している。 「日本ランド自治会花壇」の看板裏に記された日付。まだあと10年ぐらいはこのままなんだろうな。 居住者名が記された住宅看板は2017(平成29)年6月作成。 |
参考文献
- 可児町史 通史編 (可児町編/1980年2月発行)
- 可児市史 第6巻資料編 近・現代 (可児市編/2008年3月発行)