養福庵統合堰の円形分水

熊本県の宇城市(旧小川町)と氷川町の境界付近を流れる砂川に設けられた頭首工「養福庵統合堰」の300m下流に円筒分水工がある。九州だから円形分水と言うべきか。養福庵は「よこはん」と読む。

なぜこの地に円筒分水工が作られたのか。それは砂川に依存する農業用水を見ればわかる。

砂川から取水する農業用水(抜粋)

以下の表は昭和50年度に国土庁土地局国土調査課が報告した熊本・八代地域主要水系調査書から砂川に関連する用水を抜粋、上流から並べた。この表にない1基(現在は撤去済み)を含め当時で6基の頭首工があり、その後、蓮仏堰の上流に2基の頭首工が作られ、現在は7基が存在する。

用水名称 管理者 灌漑面積 取水期間
蓮仏用水 蓮仏堰水利組合 12ha 06/20-06/30
養福庵統合用水 養福庵統合堰水利組合 221ha 05/10-07/05
西小川統合用水 西小川統合堰水利組合 100ha 06/15-06/30
新田統合用水 新田統合堰水利組合 135ha 06/15-06/30
上住吉用水 上住吉水利組合 70ha 06/20-06/30
この表の出所は昭和50年度の報告であることに留意する。当時と現代ではあらゆる環境が異なり、取水期間は変わっている可能性が高い。また、原典には「養福奄」と表記されているが誤字である。

いくつかの名称のとおり、古くからある堰を統合することで効率向上を狙ったものと見られる。養福庵統合堰は昭和46年台風19号昭和47年7月豪雨による洪水被害の復旧で1974(昭和49)年度に整備された。当時の熊本県知事は小川町出身の沢田一精氏であった。

とりわけ灌漑面積が大きく(≒取水量が多く)下流は水枯れのおそれが高まるが故に、養福庵統合堰で規定量を超えて取水されないよう下流側の水利組合が厳重な管理を求め、それに対応するため円筒分水工が採用されたとみてよいだろう。なお、これら水利組合は小川町土地改良区に統合された。

頭首工の位置関係

これら用水の頭首工位置を確認してみよう。
わずか3kmの間に4基の頭首工があるのはなかなかの密度である。なお、上に掲げた表の上住吉用水の頭首工はこの地図の外側(西側)にある。

国土地理院空中写真で見る養福庵統合堰付近の変遷

1973(昭和48)年06月01日 | 1975(昭和50)年01月14日 | 2016(平成28)年04月16日

1973(昭和48)年06月01日 養福庵統合堰建設直前。写真中央、小川小学校付近の川岸(この付近に旧養福庵堰があった模様 – さらに昔には養福庵があった?)が整備された様子が伺える。
1975(昭和50)年01月14日 養福庵統合堰建設直後。円形分水がよく見える。小学校南東の砂川に架かる土穴瀬橋(1975年架設)が建設中だ。
2016(平成28)年04月16日 ほぼ現代の養福庵統合堰付近。樹木の成長で円形分水は見えなくなっている。

地理院地図や空中写真では水路の情報が不十分なので、現調結果を反映させたOpenStreetMapを使って位置関係を確認する。
この後のレポートで参照するので、円筒分水工から南東へ向かう用水路を「第1の分水路」、北へ向かう用水路を「第2の分水路」、北東へ向かう用水路を「第3の分水路」と便宜的に呼ぶ。

「養福庵」とは?

他の用水の名称は字名が採用されているが、養福庵統合用水だけが字名ではない。養福庵とは何か。ネットを検索しても一切ヒットしない。
小川小学校裏手へ続く道の観光案内に「養福庵と山伏塚」と掲出されているが。
それにしてもこの街灯は味があるな。発光体はLEDかね?まさか白熱電球?

これでは養福庵がどこにあったのか、そして山伏塚はどれか、まるでわからぬ。

小川町史をはじめ種々文献や宇城市役所から得た情報を勘案すると次のように整理できる。

  • 砂川は小川小学校の裏手あたりに流れが変わる場所があって子どもの死亡事故がよく起こっていた
  • その供養のためか砂川沿いに養福庵と呼ばれる庵が建てられていたと伝えられている
  • 養福庵は台風(または大雨)により倒壊し、現存していない
  • 近くに類似名称の養福寺があるが、養福庵との関係は不明

円筒分水工の情報整理

管理者小川町土地改良区
所在地熊本県八代郡氷川町高塚
完成時期1974(昭和49)年
訪問日2022-12-31

現地調査

この円筒分水工の存在を知ったのは、実は2021年4月である。八代・栗林団地の円形交差点を取材した後、熊本市内へ向かっているときに車中で地図を眺めていた際に視界内に何か丸いものが見えた。円筒分水工だと直感したが、手持ちの情報なくして見学の意味なしと判断し、1年間の予習・机上調査を経て訪問の機会を探っていたのだ。

養福庵統合堰

砂川に架かる土穴瀬橋から眺める養福庵統合堰。写真左の土手上にゲート操作小屋があり、写真右の土手付近で取水している。転倒堰がほぼ垂直に起き上がっているので、ピーク時と同等量を取水している状態と見える。

ゲート操作小屋に記された銘板。堰銘板を撮影しやすい位置に取り付けてくれてありがとう!ただ、この堰は正しく読めないからルビも振って欲しかったよ。

取水直後の水路。定期的にメンテされている様子だ。

砂川左岸を歩く。この付近の標高は11m前後だが、昔はこのあたりまで海だったらしい。近くの小川阿蘇神社境内や上流の蓮仏堰近くに船繋ぎの岩と伝承されている岩がある。

ひっつき虫(センダングサ系の種子)に悩まされながら藪を分け入ると見えてくる金網。

円筒分水工

養福庵統合堰の円形分水を北側から眺める拡大する
養福庵統合堰の円形分水を北側から眺める。全量取水でも静かな円筒分水工だ。

360度写真なのでグリグリしてあちこちを見てほしい。

養福庵統合堰の円形分水を南側から眺める拡大する
南側から眺める。

机上調査では、第1の分水路の存在はわからなかった。淀んでいるものの、水路は手入れされている。

小川小学校前から土手の様子を確認する。円筒分水工でそこそこの量の水が溢流していたが、土手から突き出たヒューム管からは水が出ていない。ということは、「第3の分水路」はどこかの田畑へ配水されていて、福岡県の伊田地区円形分水器や秋田県の添川頭首工分水工のように規定量を超える水を川に戻す目的はないということか。

石造の背割分水工

小川町・氷川町の名産は白玉粉と聞いていたので、見学後に土産を買い求めるべく1638(寛永15)年創業の白玉屋新三郎本店へ。この店の脇に第2の分水路が通っているのでチェックしておきたかった。
築100年以上の店舗。熊本地震の3年前に補強工事を施していたそうだ。屋根の小さな錣(しころ)に記された「白」がかわいいぞ。

その本店看板娘が「お主、何しに来た?」と問うので「円形分水を眺めに江戸から参った爺でござる」と答えたところ、店の脇にも分水があるよ、薩摩街道の南北両側へ水が流れてるんだよ、と教えてくれた。
ん?分水?第2の分水路はここでさらに分水してるのか?

なんと、石造の背割分水工じゃないか。これは古いぞ!おそらく明治か大正、或いは江戸後期ぐらいまで遡るかも知れん。美人の看板娘、素晴らしい情報をありがとう!
さて、詳細な情報はどこかにあるか?地理院地図で江戸時代の空中写真を眺められるといいのにな。

参考文献

  1. 熊本・八代地域主要水系調査書(昭和50年度/国土庁土地局国土調査課)
  2. 小川町史(昭和54年3月/小川町役場)
  3. 熊本県土地改良史(1990年03月/熊本県土地改良史編集委員会 編)
  4. 八代平野(1973年3月/九州農政局八代平野農業水利事業所)
養福庵と山伏塚の由緒について宇城市役所文化スポーツ課に多大なる協力をいただきました。あらためて御礼申し上げます。